2012/01/28

冬のみちのく、石の旅

1月21日早朝、東京からの夜行バスで青森駅に到着すると辺り一面は銀世界だった。駅前の広場では除雪機から噴雪が飛び美しい。今日からモンベル青森での写真展が始まる。モンベル青森店内のモンベルサロンには、いい感じで展示をさせていただく。

石の語りべには、懐かしい方々をはじめ9名の方々に来ていただく。

 翌22日、盛岡駅で磐座仲間の岩手の佐藤さんと再会して、岩手南部の石を案内していただく。最初に訪れたのは、奥州市江刺区にある源義経伝承が残る源休館。三つの巨石に囲われた空間に地神坊稲荷神社が祀られていた。

周囲約12mもの三つの巨石は、地元では狐石と呼ばれ、宮の左右に高さ3.6mの巨石に屋根をかぶせている。遠くから眺めると一瞬、ドルメンのようだ。三つの石の背後にも、いくつかの巨石があったが、雪に覆われていて全体像がはっきり見えなかった。
 次に向かったのは、奥州市衣川区にある磐神社だ。磐神社は、まさに古代から信仰される自然石そのものがご神体である。案内板に寄れば延喜式内奥州一百社の内で胆沢七社 の一とされ、古代より崇敬され男石大明神とも云われ、近くの松山寺境内に女石神社があり、陰陽の二神、日本武尊と稲葉姫命を祭っているとのこと。拝殿の後ろには、東西に10.2m、南北に8.8m、 高さ4.2mのご神体が鎮座していた。


拝殿は明治30年に建立されてもので、すぐ隣に「石神担い手センター」なる施設があった。

次に近くにある松山寺境内の女石神社へ向かう。小さな女石神社は、最近再建されたようで真新しい。神社をお参りし、その裏に回ると周囲5m、高さ2mもの割石が鎮座していた。


 その後、平泉町にある鬘石、達谷窟、弁慶の墓を訪ねる。
鬘石は、高さ約7m、周囲30mくらいある巨石。

伝承に寄れば、その昔、達谷窟毘沙門堂を砦を砦としていた悪路王等が京から姫君をさらってきて「籠姫」という場所の閉じ込めた。「櫻野」で花見をしているとき逃げようとした姫君の黒髪を見せしめに切り、その髪かけた石が「鬘石」(かつらいし)。何とも野蛮な話だ。その後、姫君は仲光・季春という剛勇によって助けられ京に戻ったとか。
 達谷窟は、 延暦20年(801年)、蝦夷の頭悪路王等を桓武天皇の詔を奉じた征夷大将軍坂上田村麻呂が滅ぼし、洞窟に毘沙門堂を建立したもので、正式には達谷窟毘沙門堂と呼ばれる。

毘沙門堂横の岸壁に顔面大仏がある。

高さ16.5m、顔の長さが3.6mもあった。

その後、中尊寺の入口にひっそりと佇む弁慶のお墓と弁慶堂をお参りする。

お墓は、大きな石碑に弁慶の墓と彫られているが、佐藤さん云く、昔は小さな石が置かれていただけというので、塚の上の小さな石が弁慶のお墓と思われる。

 一関市の道の駅「厳美渓」で昼食を食べ、北上市の樺山遺跡へ行く。樺山遺跡は、縄文時代中期の配石遺跡群が広範囲に広がっている。残念ながら雪に覆われていてわずかな石の頭だけが顔を出していた。遠野市の高森へ行く途中、道路沿いに「鞍掛岩」なるものがあった。

看板に鞍掛岩とあるが、云われなど書いていなかった。
 最後に訪ねたのは遠野市にある「呼ばれ石」。

案内板によれば、その昔、この近くで作業をする者に向かってふもとから家人の昼呼ばり(昼食時を知らせる)する声を真似たり返事をしたり、返事をしたりするのは、どうやらこの巨岩のいたずらであるらしい。さては狐狸の化身かた狩人を頼んで一発打ち込んでから人の声に呼応することがなくなったという。雪に覆われた「呼ばれ石」の上には、小さな石の祠が祀られていた。
 佐藤さんに東北本線の石鳥谷駅まで送っていただき、岩手南部の石の旅を終了する。今回、実に興味深い岩手の石をご案内していただいた。佐藤さんの感謝しつつ、その夜、青森へ向かった。

 1月23日、旧暦元旦、青森でレンタカーを借りて東北町の「日本中央の碑」を訪ねる。雪に覆われた日本中央の碑保存館の中に入ると、立派な台座の上に石碑が鎮座していた。

日本中央の碑とは、昭和24年に当時甲地村であった石文集落近くの赤川上流で千曳在住の川村種吉により発見された、高さ1.5mほどの自然石で表面に鏃で日本中央と彫ってあるもの。

一説では平安時代に坂上田村麻呂が朝廷の力を示すために刻んだとか、西行法師や線式部が和歌に詠んだ「つぼのいしぶみ」とも考えられるが、未だ謎という。
その後、青森市内に戻り、入内の石神神社を訪ねる。入内の集落は、すっぽりと雪に覆われていた。地元の方に、石神神社への山道の状況を尋ねる。かなりの積雪で、お参りするのは難しいとの応えが返ってきた。入内の集落入口にある小金山神社(入内観音)にをお参りして帰りなさいとも言われた。しかし、私は石神神社行きを断念できなかった。どうしても雪の石神さんに会いたいと思い、雪道を歩いてゆくことにした。参道の雪道に入ると何かの足跡があった。それは、スノーモービルが走った跡だった。それは、恵みの跡であった。まっさらな雪道を歩いたら、足はかなり雪の中に埋まってしまう。スノーモービルが走った跡を歩けば、それほど足を取られないで歩くことができた。雪道を歩いていると、いつしか異次元に来たような不思議な感覚になってゆく。雪の跡をひたすら歩いてゆく。

やがて、「アッテンポロウ」の唄を口ずさんでいた。この唄は、縄文トランスのラビラビの唄だ。昨年秋、京都のVillageで一緒にイベントをさせていただいた時、初めて聞かせてもらった。ラビラビは、石神さんと初めて出会った時、この唄を石神さんからいただいたという。
「アッテンポロウ」の唄は、どこか懐かしく、どこか切なく、そしてどこか愛おしい響きがある。
「アッテンポウロノシーノーチー イーヤーイーヤーイーヤーイー アッテンポウロノシーノーチー イーヤーイーヤーイーヤーイー・・・・・・・」唄いつづけ、歩きつづけ40分くらい経っただろうか、遠くからエンジン音が聞こえて来た。そう、スノーモービルである。すれ違い様に、挨拶を交わすとスノーモービルには三人の男性が乗っていた。彼らは石神さんをお参りに来たのだろうか。
やがて、石神神社の入口に到着する。山道を歩きはじめてから1時間と10分が経過していた。石神神社の鳥居は、半分ちかく雪に埋まっていた。

凄い光景だ。鳥居の隙間の道なき雪道を歩いて石神神社の拝殿がある山を上った。拝殿の周りもかなりの雪が積もっていた。

拝殿の横から裏へ回った。石神さんが鎮座していると思しきあたりを見るが、雪に覆われていてよくわからない。目を凝らすと、かまくらのようにやや丸みを帯びている処があった。ここが石神さんがいる場所に違いないと思い、近づいてゆっくりと参拝する。

石神さんは、半年近くをこの雪の中で眠っているのだ。雪の下に、あの異形の姿を持つ石神さんを想像すると心が震えた。
奥深き伝承の地、東北にはまだ見ぬ様々な石神さんが鎮座しているのだろう。
冬のみちのく、石の旅は無事に終了。その夜、青森から夜行バスで東京経由で、湖国・彦根へ向かう。浜松近辺のバスの車窓から暈が見えた。


須田郡司 拝