2009/05/03

ジャール平原~謎の石壷群を巡る

51日深夜2時、ポーンサワン行きのバスは、山間の食堂の前に停車した。車掌は、食事のゼスチャーをする。こんな遅い時間に食事かと思い食堂に入ると、どうもバスチケットが食券になっているようだ。バス移動で食事付とは初めての経験だった。我々は米粉の面を食べる。添えられたキャベツとミントが実に旨い。

その後、バスはかなりくねくねした山道を上がって行く。運転手達は、一晩中ボリュウムいっぱいで地元の音楽を流し、一緒に歌いつづけていた。頭がもうろうとしている中、6時半にポーンサワンのバスターミナルに到着する。

同上していた日本人の旅人二人と合流し、トゥクトゥクで街中へ向かった。

ポーンサワンに来たのは、ジャール平原を訪ねるためだ。ここには、ラオス最大のミステリーである先史時代の巨石文化と呼ばれる不思議な石の壺があった。ただ、この一帯は反政府勢力との銃撃戦(2007年)もあり、今回、行くかどうか迷った場所だった。

街中で朝食を食べていると、ラオス人の若者がホテルとジャール平原のツアーの勧誘にやってきて、料金がそこそこだったので我々はツアーに参加することにした。

ホテルに荷物を置き、9時から8人でツアーに出発をする。

最初にポーンサワンのインフォメーションセンターに行くと、そこには多くの爆弾の弾頭が並べられていた。インドシナ戦争中の被害を物語っていた。




ジャール平原は、サイト1~3の三つのエリアがある。

1944年~75年、インドシナ戦争にアメリカ軍とラオス国軍の連合軍がパテート・ラーオ(現ラオス政権)が展開するシェンクアンに投下した爆弾は7500トン。爆弾が作った穴が、ジャール平原のあちこちにある。また、不発弾も未だ完全に撤去されていない状態だった。

ジャール平原全体には、500個以上もの石の壺が点在している。





        白側は安全地帯、赤側は危険地帯





                  爆弾で空いた穴



この石の壺は、193132年の間、フランスの考古学者コラニーによって発見された。

大半の壺の中には何も出土されなかったが、ごくわずかな壺から人骨、ガラス玉が見つかり、また、その周辺から土器、石器、鉄器、ガラス玉が見つかったという。

1994年、日本の考古学者・新田栄治らによる調査では、やはり、人骨や鉄器、玉類などが発見され、今のところ石の壺の目的は「棺桶」説が有力だ。

サイト1は、最もたくさんの壷が点在していて、その近くに洞窟がある。洞窟からも人骨が発見され、また洞窟の天井に穴が開いていてことから、火葬場として使われ、そこで白骨化したものを石壷に入れたと思われている。

他の説として、“酒壷説”、“米壷説”などがある。

その昔、空の神・テーンが地上に降りてきた時、壷から酒を飲んだという伝説が残っている。

暑い中、ゆっくりとサイト13のすべての石壷を巡ることができた。壷の穴は、丸いものから四角いものがあり、壷の大きさはまちまちでどれも個性的な感じがした。


石壷には、もともと蓋があったようで、上に乗せられているものが一つだけあった。いくつかの壷の近くには、蓋が置かれてあった。また、ある壷には女神のような像が彫られているのがとても興味深かった。





      女神像が彫られた壷



多くの石壷を見ていると、自分としては酒壷説に賛同したい。

昼食後、これから田植えが始まろうとしている水田の畦道を10分ほど歩いたところにあるサイト3を見学する。私も含めツアーのメンバー達は、石壷の見学にお腹いっぱいといった感じだった。










ジャール平原の巨石群は、一体何のために作られたのだろう。これら石壷を見ていると、石壷が信仰的な役割があったように私は感じた。一つ一つの形が異なる石の壷を作ること自体が、まるで祈りの行為だったのかもしれない。


ツアーの最後に訪ねたのはある農家で、米で作ったラオラオというお酒を試飲させてもらう。アルコール度数35℃もあり、少し飲んだだけだかなり良い気分になった。


それにしても、10時間のバス移動、そして暑い中の6時間のジャール平原の石壷ツアーは、かなりハードであった。しかし、ラオス人の素敵な笑顔で何とか乗りきることができた。




        世界遺産の街、ルアン・パバンにて  郡司 拝