2009/06/29

エチオピア、戦士の刻印を残す石柱

6月26日
ラリベラからアジスアベバに戻り、アジスアベバの南西約90kmにあるティアの墓石群へ向かった。
朝8時、アマルナートの長距離バスターミナルからブッタジラ行きのバスに乗り2時間あまりでティアに到着。
小さな村にも関わらず、バーやレストランが数軒あった。これも世界遺産の恩恵なのかと思いつつブランチにスパゲティを食べる。
道路沿いに大きく世界遺産の看板があり400mとある。

ティアの墓石群は、村の南の丘にあった。
集落沿いに小道を歩くと、さっそく子供たちがやってきてハロー・マネー攻撃。しばらくすると、フェンスに囲われた鉄のゲートが見えた。
事務所から係員がやってきてゲートを開け入場料一人50ブル(約450円)を払う。

牧場に囲まれたフェンスの中に入ると40基あまりの石柱が立ち並んでいた。その光景は、まるでヨーロッパのメンヒルや、ストーンサークルを見ているようだった。


この一枚岩の墓石群が世界遺産になっているのだ。40基あまりの墓石群は、12世紀頃の戦士の墓といわれ石柱と囲われた低い石が一つの構成になっている。石柱には、いくつもの剣のレリーフが彫られている。これは、亡くなった戦士が生前に倒した敵の数を現しているとされる。また女性を現すレリーフなども彫られている。


事務所の係員によると、かつて石柱は5mほどの高さがあったが、ほとんどが地中に埋まってしまい、今では1~2.5mしかないという。
また、これらの石はすべて1kmほど離れたデヴィヴァ川から運ばれたもので、石に穴を空け紐を通しその頃に生息していたゾウで運ばれたと推測される。
この石柱は、特に地元の人々にとって信仰されているものでもなく、ほとんど興味を示さないという。

興味深いのは、石柱と石柱の間に1mほどのリンガ(ペニス)の石があることだ。
かつては、ここは単にお墓だけではなく祭祀が取りおこなわれて行われていたのではないだろうか。
この丘に立って石柱群を見ていると、そう思えてきた。

世界遺産の登録によって多くののエチオピア人、外国人やってくるようになり地元の人々はどのように感じているのだろう。喜んでいるのは、子供たちだけかもしれない・・・。

               エジプト、カイロにて 郡司 拝

聖なる水が滴る岩屋教会・ラクトラブ

エチオピアの小さな街ラリベラは、11の岩窟教会が世界文化遺産として登録されているため世界中から観光客がやってきていた。街を歩くと、ぼろぼろでつぎはぎだらけの服を着ている人も多く、物質的な貧しさを感じる。子供たちは、屈託ない笑顔でやってきては「ハロー、マネー」「ハロー、ペン」などと声をかける。また、「ジャパニ、ジャパニ」とよく声をかけられた。

22日の午後、私はラリベラの東約7kmにある岩屋の中にあるラクトラブ教会へ向かった。この教会はアシェトン山の麓にあり12世紀頃にラリベラ王によって造られたもので、ラクトラブとは現地の言葉で「神への感謝」を意味していた。
ラリベラから歩いて行くと、所々の集落から子供たちにハロー・マネー攻撃を受ける。しかし、それほどしつこくない。起伏に富んだ道を1時間半ほど歩くと、集落の外れのラクトラブ教会の入口に辿り着いた。入場料50ブル(約450円)を払う。
眼下には巨大な岩屋が見え、その下は谷になっていた。
石段を下って行くと岩屋の下に造られたレンガ造りの教会が現れた。

教会の入口の横に妙な石があった。細長い石が三つ紐で括られ吊り下げられ、上に小石が乗せてあった。
思わず小石でそれぞれの石を叩くと金属音がして、不思議なメロディーになった。

ラクトラブ教会は、岩屋を取り囲むように造られていて、いくつかの部屋に区切られていた。
中に入ると司祭は、教会の奥の扉を開けて中を案内してくれた。薄暗い部屋の中は、いくつ物の石の桶が配置され、その中に水がたまっていた。
天井を見上げると何ヶ所からか水が滴り落ちていて、落ちる場所に石桶が配置されていた。部屋の中にはポタポタと小さな音が響いていた。

司祭は、この天井から落ちる水は聖なる水だといい、コップに汲んで飲ませてくれた。冷たくて実に美味い。

しばらく、この滴り落ちる水を見ていると、沖縄・伊平屋島のクマヤ洞窟(天の岩戸)、イラン・ヤズドのゾロアスター教の聖地チャクチャクを思い出していた。この岩屋と聖水の関係も、やはり世界中で共通しているのだと思う。

その後、司祭は600年ほど前に画かれたフレスコ画や教会の宝物などを丁寧に説明してくれた。


帰りがけ、教会近くの集落の上に巨木が見えた。近付いてみると、それは巨大なバオバオの樹であった。

このエチオピアの地で大好きなバオバオの樹を見ることができ、何か贈り物をいただいたような気分でラクトラブ教会を後にした。

             エジプト、カイロにて 郡司 拝

口付をされる岩達~ラリベラの岩窟教会群

6月22日
早朝、ラリベラの教会の中で最も知られているセント・ギオルギス教会へ向かった。
ラリベラの街をやや下ったチケット売り場からさらに下った処に岩窟教会はあった。
門番にチケットを見せ、教会が見える丘に立つと朝のやわらかい日差しがセント・ギオルギス教会を包んでいた。 この教会は岩を上から掘りぬき正十字形の形にしたもので、丘から眺めると何とも美しい正十字の形が浮き出ていた。

しばらく見ていると、正十字形の岩の淵にある男性がやってきて、静かに屈みながら岩に口付けをしたのだ。どこか、厳かな儀式を覗き見したような気分になった。

その後、セント・ギオルギス教会の中に入るため岩の窪みの石段を下りてゆくと、大人一人が通れるように掘り下げられた道になり、トンネルを潜ると教会の正面に到達した。下から見ると、彫りぬかれた教会はかなりの高さがある。高さ12m、奥行12m、幅12mの正十字形の石室で、3階建ての建物に見える。
やがてエチオピア人がやってきて、靴を脱ぎ教会の入口の下と横の岩に口付けをして中に入っていった。

このセント・ギオルギス教会は「ノアの箱舟」を象徴しているとされ、別名「ノアの箱舟」とも呼ばれている。
ラリベラには全部で11の岩窟教会があり、世界文化遺産に登録されている。それらすべての教会は、今でも人々の信仰と暮らしの中で大切にされていた。

 ラリベラに岩窟教会群ができたのは、12世紀の初頭。アクスム王国の勢力が衰え、新王朝ザグウェのラリベラ王が首都をアクスムからラスタ地方のロハに遷都する。ロハは、王の名を取ってラリベラと呼ばれる。その頃、イスラム教徒により聖地エルサレムへの道が占領され巡礼ができなくなった。そこで、ラリベラ王はロハの地に第二のエルサレムを建設しようとして、巨大な一枚岩を掘り抜いて11もの岩窟教会を造ったのだ。それは、ラリベラ王の強い決意、人々の信仰への力があったからだろう。また、この11の岩窟教会群は地下通路ですべてつながっているといわれている。

 朝の岩窟教会を巡っていると、ラリベラの人々が日常の中でいかに信仰を主に生活をしているかがわかる。
人々は岩窟に持たれながら聖書を読み、岩の教会に口付けをして聖なる祈りの時を過ごす。それは、岩をハグし、岩と対話しながら生きているようにも見える。


この光景を目の当たりにすると、ラリベラの人々は岩そのものがまるでキリスト(神)の象徴として捉えている、そんな風に思えてくるのだ。それは、まさにアニミズムの世界だ。
エチオピア正教にとって岩という鉱物は、単なる無機質な存在ではなく、神に近い存在として重要な役割を感じているのではないだろうか。


              エジプト、カイロにて  郡司 拝

エチオピア、天国に最も近い岩窟教会・アシェトン山の聖マリア教会

6月18日から27日の10日間、初めてのエチオピアを訪ねる。
その目的は、エチオピア正教(キリスト教)の聖地、ラリベラの岩窟教会を見るためだった。
エチオピアの首都アジズアベバからラリベラまではバスで片道二日間かかる。往復で4日間は移動にとられるというスローな旅であったが、エチオピアという国の日常を少しだけ見させてもらったように思う。
ネット環境がよくなかったため、エジプトのカイロから報告します。

エチオピア共和国の首都アジスアベバからバスで二日かけてようやくラリベラに近付いている時、車窓から迫力ある山が目に入った。その存在感に思わず何度もシャッターを切っていた。地元の人に聞くと、この山はアシェトン山という聖なる山でその下に岩窟教会があると教えてくれた。


6月21日
ラリベラに到着した翌日の早朝、ラリベラを散歩していると中学生くらいのある少年がやってきて、どこに行くのかと私に尋ねる。私は昨日バスで見かけたアシェトン山の岩窟教会に行こうと思っていることを告げると、彼は自分が案内すると言って山の小道を上がり始めた。特にガイドを頼んだわけではないが、正直そうな少年だったのでお願いすることにした。
山に登り始めると、地元の人が何人もアシェトン山に上っている姿を見かけた。道は次第に急な坂道になり、少年はサンダル履きにも関らずひょうひょうと登って行く。ラリベラの村は標高2500mあまり、そこからさらに上にあるアシェトン山の教会への道は、かなりきつかった。歩幅は狭く、呼吸もゆっくりしながら何とか少年の後をついていった。途中、何人もの薪を担ぐエチオピア人とすれ違う。「サラーム」(挨拶の言葉でピースの意味)と掛け合うと心地よい。「ハロー」より素敵な言葉だ。
坂道が終り平らな高地に着くと、そこには小さな村があった。その村の外れからさらに坂道になり、そこを登りきると遠くに岩盤が見え、そこに豆粒ほどに人影が見えた。
あそこが教会か、と思いつつ崖の斜面に作られた小道を歩く。教会の入口で、入場料(50ブル:約450円)を払う。


岩のトンネルを潜ると、巨大な石室が現れた。それは、兵庫県の石の宝殿を思い起こさせたが、その規模をはるかに凌いでいた。
この岩窟教会は、今から800年ほど前に岩をくり抜いて造られた聖マリア教会と呼ばれ、天国と神に最も近い教会と信じられていた。
靴を脱いで教会の中に入ると、司祭が十字架を持って人々の頭や顔を撫でていた。どこか祈祷のように見える。司祭は、サービス精神旺盛で古そうなフレスコ画や十字架などを見せて写真に撮らせてくれた。



岩窟の中は暗く、奥はカーテンが覆われていて中を見ることはできなかった。
岩窟教会から外に出てさらに上がって行くと岩盤の上に出た。
すると、そこには100人もの白い布を纏った人々が岩の上に座り、ある司祭の話に耳を傾けていた。その司祭は笠を指し、静々と説教をしていたのだ。

この光景は、この教会ができた800年あまり前から変わらずにあるのだと思うと、鳥肌が立った。
ここは確かに天国に近い場所なのかもしれないと、思えてきたのだ。 そこからの眺望もすばらし。
標高3100mの岩をくり抜いて教会を造り、人々は毎週この岩にやってくる。そこには、山への信仰、岩窟への信仰、岩への信仰を強く感じる。
やがて、「アーメン」の言葉で集会は終り、人々にバンが配られていた。
岩の上に集う光景を見たとき、その背後のがアシェトン山が何とも崇高な山に思えてきた。

エチオピア人は標高3100mの岩盤に教会を造り、そこが信仰の拠り所として今日までつづいているのだ。 しかも、それが岩の教会である。

しかし、残念に思うことがあった。それは、岩窟教会を覆うようにかけられたトタン屋根だ。まるで建築現場の足組のような木とトタンが、岩窟教会の尊厳さをも失わせているようで実に残念だった。

この屋根は、近年岩窟教会の風化を防ぐために作られたという。
しかし、屋根によって石室は、太陽の光を浴びることも雨を受けることもできない。岩窟そのものが本来備わっていた大いなる自然の力を失ってしまったように思えてならない。

やはり、天国と神に最も近い岩窟教会なら岩窟そのものだけにして欲しい。そんな、身勝手な思いを抱きながら 聖なるアシェトン山を後にした。

           エジプト、カイロにて   郡司 拝

2009/06/16

パモッカレの石灰棚と古代温泉、ヤリカワクのマサコさんとの再会

6月15日

カッパドキアから夜行バスで12時間あまり走り、早朝パモッカレに到着した。
ここは、古代遺跡ヒエラポリスと温泉プール、そして石灰棚の地形で知られている。

朝食を食べ、ゆっくり坂道を上がってゆくと白い石灰棚が見えてきた。まるで雪が積もって白銀の世界を造っているようで眩しい。水量が少ないようで、途中、空っぽの石灰棚もいくつかあり、丘上に近付くと棚田のような美しい石灰棚があった。


                  パモッカレ全景

            石灰棚


2世紀に造られたアポロン神殿は、プルトニオン(有毒ガス)が発生する場所に造られ神託が行われた。


                アポロン神殿跡
毒ガスがでる穴はプルトン(冥界)に通じる。かつて、巫女はこのガスを吸いこんでトランス状態になりアポロンの言葉を告げたとされる。ヒエラポリスとは、聖なる都市を意味する言葉だ。

また、ここには古代から治療に使われた温泉がある。今では温泉プールとして、入場料を払えば中に入る事ができる。我々は、久々の温泉に胸躍らせて温泉に向かった。入場券を購入し着替えて温泉の入口に行くと、係員は私の褌姿を見て、パンツをはけというのだ。私は、頭にきて褌は日本の伝統的なものであることを主張した。それからしばらくやりあった末、係員はしぶしぶ、褌で温泉に入る事を認めた。とにかく、入る事ができて内心ほっとした。


                  温泉プール

             源泉
温泉プールの中は、水着を着た人々が温泉に浸ったり、泳いだりしていた。面白いことに所々に石柱が転がっていて、温泉はまさに古代遺跡(世界遺産)の中にあるのだ。

源泉に近付くと深さが4mほど深くなっていた。そこは、下から細かい泡が吹き出していた。そう、それは重層(炭酸カルシウム)であった。泡は身体に付いて細かな気泡になって、とても心地よいのだ。

午後、パモッカレからボドルム、そしてヤリカワクへ向かった。

ヤリカワクに住む、マサコさんに会うためだ。マサコさんはトルコでヒーリングの仕事をされていて、トルコとインドネシアを拠点に暮らしている方だ。
マサコさんの家族、大久保ファミリーとは、10数年前にアフリカのマダガスカルを旅している時に出会った。彼らは日本を離れ31年間海外で生活をしていて、身近な仲間の間では伝説的なファミリーでもあった。
マサコさんとは昨年、東京の代々木公園で行われた友人のバンドにマサコさんの娘がダンサーとして参加した時に再会していた。

ヤリカワクは、トルコの南西の地中海沿いにある街で、今ではリゾート地として人気を集めているという。
マサコさんは、我々の突然の訪問を歓迎して下さった。お住まいは、海と山が見える素晴らしい環境で、心地よい風を浴びながら寛がせていただく。
その夜は、マサコさんの手料理とトルコワインをご馳走になりながら、宴に花を咲かせる。妻はマサコさんの生き方や薪を使っての料理に感動していた。


           
翌日、マサコさんはヤリカワクの街を案内してくれた
ヤリカワクの街は、近年リゾート地として開発され海外から多くの人々が訪れているという。
コバルトブルーの海は実に美しい。


            
徒歩で1時間ほどした処にある、Kaya Mezarlari という紀元前200年頃の古代遺跡に行く。
そこから青い海を見ながらお弁当をいただく。何ともゆったりとした贅沢なひと時を過ごす。
半島の入り江から少し上った処にある遺跡跡は、巨大な岩を洞窟状に加工したもので、自然の浸食も進んでいた。ここは、かつてお墓として使われたといわれる。


                    カヤ遺跡




ヤリカワクには、この他にも山上にいくつかの古代遺跡があり石造文化が多く残っているという。

マサコさんの友人にヤリカワクの役所に勤めている方がいて、彼に来年ここで石の写真展ができないかと提案したところ、さっそく私のホームページを見てくれ興味を示してくれた。


               ドーム・ギャラリー
うまくゆけば、来年の7月頃にヤリカワクで写真展ができそうだ。

            イスタンブールにて  郡司 拝